天才書家金澤翔子の国内外から注目される経歴や作風とは!傍で支える父母について!

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5月5日の情熱大陸に
天才書家の金澤翔子さんが出演されました!
 
金澤さんと言えば、
寺社への奉納、大河ドラマの題字を担当するなど
国内外から注目を集める書家ですが、
彼女の一体どのようなところが
人気なのでしょうか。
 
金澤さんの経歴や生い立ちは?
作風はどんなもの?
ご家族はどのような人たち?
 
と、いろいろなことが
気になりましたので、
リサーチしてみました!
 

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金澤翔子さんの経歴は・・・

https://www.mbs.jp/jounetsu/2019/05_05.shtml

金澤翔子さんは、1985年生まれの今年34歳。
東京都の出身です。
料理とマイケルジャクソンが大好き。
他にもカラオケやプール、小池徹平さんが好き。
 
みんなにパワーをあげたい」が口癖。
好きな文字は「」。
 
1990年の5歳のころから書道を始め、
1995年に全日本学生書道連盟展に「」を初出品。
 
小学生の頃から書に夢中だったようですね。
ちなみに進学した東調布第三小学校の同級生には、
今大人気のバンド「SEKAI NO OWARI」のボーカルFukase
リーダーNakajinがいますが、
そのころ交流はあったのか気になるところです。
 
1999年に 日本学生書道文化連盟展に「」を出品し銀賞を受賞しています。
 
また、2000年にも 同じく日本学生書道文化連盟展に
延命十句観音経」を出品して銀賞を受賞。
 
翌2001年に日本学生書道文化連盟展に「舎利札」を出品し、
学生書道としては最高位である金賞を受賞するという
快挙を成し遂げています。
 
その後、矢口擁護学校に進学し、
2002年には、 日本学生書道文化連盟展に
」を出品しまたも金賞を受賞。
 
2003年には教育家として有名な荒井裕司さんが理事を務める
ステップアップアカデミー(現翔和学園)に進学しました。
(のちに中途退学)
 
2005年の20歳で初の個展 「翔子 書の世界」を
銀座書廊で開いています。
 
その後、2006年に建長寺に「慈悲」を奉納、
2009年11月、建仁寺に「風神雷神」を奉納したところ、
国宝の「風神雷神図」の隣に展示され大きな反響を呼びました。
 
他にも東大寺、薬師寺、中尊寺、延暦寺、
熊野大社、厳島神社、三輪明神大神神社、
大宰府天満宮、伊勢神宮、春日大社等で
個展や奉納を行っています。
 
この誰もが聞いたことがある、
名だたる寺社への奉納ができるところが
金澤翔子さんがスゴイことを物語っていますね!
 
金澤さんのすごいところは、これだけではなく、
2012年に大河ドラマ「平清盛」や天皇の御製を揮毫し、
しかもさらにニューヨーク、シンガポール、チェコなど
海外でも多数個展を開くようになり、
日本国内だけではなく海外でも注目を集めています。
 
そして、2012年には、福島県いわき市に、
常設館「金澤翔子美術館」を開設し、
館長に就任しています。
 
 
これらの活動から、
紺綬褒章を受章するまでになっています。
 
まさに、今勢いのある天才書家として
注目が集まっていますね。
 
 

実はハンデがあります

金澤翔子さんは、
実は「ダウン症(候群)」によるハンデがあります。
 
ただ、そのハンデからは想像がつかないくらい、
その筆から生み出される書には他に類を見ないほど
力強いエネルギーが溢れ出しています。
 
そして、その強さに感動を覚えて涙を流す人も多くいるのです。
 
翔子さんのお母さんの泰子さんは
翔子はただみんなに喜んでほしいという思いだけで書きます。
そんな純粋な魂が、見る人の胸を打ったのかもしれません。
と言っています。
 
翔子さんの作風は、これが根源なのでしょう。
 
日々汗を流して練習に励む姿や、
数々の大舞台で揮毫する一流の書家としての姿が
見る人の心を揺さぶっているようですね。
 

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金澤翔子さんのご家族はどんな人たち?

金澤翔子さんには、お父さんとお母さんがいらっしゃいます。
 
お母さんは泰子さんと言って、翔子さんと同じく書家です。
書家名は金沢蘭鳳
1943年に生まれ、1962年に明治大学へ進学されています。
書家で有名な柳田泰雲さんに師事しました。
 
42歳の高齢出産で翔子さんを出産。
 
翔子さんが新生児期に敗血症にかかり、
後にダウン症と診断されたときには
ショックで一緒に死のうとまで思い悩んだそうです。
 
でも、ある時泣きながら授乳していたときに
翔子さんが小さな手で涙を拭って微笑んでくれたことで、
翔子さんの優しさと賢さに触れ、
また、夫の熱心な想いと
遅咲きながらも着実に育っていく翔子さんの姿を見て
思いとどまったそうです。
 
わが子がハンデを持ってしまうことは、
やはり辛いしどうしてよいかわからなくなってしまうのも
仕方ないことですよね。
 
でも、周りの人の想いや
翔子さん自身の優しさや頑張りで、
その辛さも癒えて本当に良かったです。
 
今でこそ当時のエピソードを
語れるほどにもなり、
翔子さんの活動をサポートされているようです。
 
 
翔子さんのお父さんは、
裕さんといって、1948年生まれでした。
ご実家の自営業を継いでいたそうです。
 
38歳の頃に、翔子さんが生まれていますが、
その前には泰子さんが2度の流産を経ていたため、
念願の子どもだったようです。
 
年齢的に、しかも女の子の子どもとなると、
お父さんとしては、
もうメロメロだったことでしょうね。
 
でも、実は敬虔なクリスチャンだったようで、
翔子さんが敗血症になって
血を交換することになっても、
「神様からの挑戦を受ける」と言い、
その承諾はしなかったそうです。
 
最愛の娘に対しても、
強い信念で接した裕さん。
 
書道を始めた翔子さんが
271文字の般若心経を練習した字を
褒めていたそうです。
 
その後も、娘はもちろんのこと、
翔子さんのハンデにショックを
受けた泰子さんのサポートも行い、
忙しくされていたことでしょうが、
きっと楽しく生活されていたのではないでしょうか。
 
ただ、残念なことに51歳になるころ、
翔子さん14歳のときに
亡くなられています。
 
翔子さんの今の大活躍を見たら、
さぞ喜ばれることでしょうね。
 
 

まとめ

今、大注目の書道家、金澤翔子さんについて
リサーチしてきましたが、
いかがだったでしょうか?
 
ダウン症というハンデを物ともせずに、
素晴らしい書を生み出し続ける翔子さん。
 
その才能と頑張りで、
これからも日本各地だけでなく、
世界をも魅了するその書でたくさんの人を
感動させ、幸せにしてくれることでしょう。
 
 
今後の活動がますます楽しみですね!
 

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